【実録】ネグレクトをしてきた義理の父と養子離縁で完全に離別したよって話
皆さん、こんにちは。
先日、こんな投稿をしました。
これは、「養子離縁届」という用紙が無事に受理されたときのポストになります。…物々しい書類ですが、みなさんは「養子離縁」という概念をご存じでしょうか?養子離縁とは、養子縁組により作られた養親子関係を終了する制度のことです。つまり、親子関係を国の定めたルールのもと解消するものとなります。
筆者は義理の父から暴力や育児放棄などの虐待を受けて育ってきた経緯があります。ずっと親子の縁を切りたいと思っておりましたが、この度こういった手続きの存在を知ったことで、ようやく正式に親子関係を解消することができました。
今回はこの「養子離縁」という内容について、
- 養子離縁のルール
- 実際に行った準備
- 離縁後の感想
についてまとめていこうと思います。
この内容自体ニッチ過ぎるうえにセンシティブな話題に抵触するので、記事にするのに少し抵抗がありましたが…日本のどこかに私と同じく親子関係や苗字の関係で苦しんでいる方もいらっしゃると思います。そういった方々に「こういうやり方もあるんだよ!」ということを届けられればと思います。
それでは、よろしくお願いいたします!
私の幼少期
まずは、僭越ながら私の幼少期について簡単に自己紹介させてください。
喧嘩の絶えない家庭に生まれる
幼少期の記憶…ということで私が覚えているのは、とにかく「にぎやか」な家庭であったことです。父と母、私と年子の妹の4人家族でマンションに住んでいましたが、とにかく父と母の喧嘩が絶えず、物の投げ合いがあったりだとか、取っ組み合いの喧嘩があったりだとか、とにかくどたどたと騒がしい家でした。私は子供ながらに、喧嘩が怖かったのか泣いている妹が怖がらないように一緒にいてあげていたことを覚えています。
物心がついたときに祖母から聞いた話ですが、母にはとんでもない浪費癖があり、連日家のお金をとにかくブランドもののバッグや衣類、アクセサリーなどにつぎ込んでしまっていたようでした。実の父が逆にミニマリストであったこともあり、とにかく価値観の相違が喧嘩にエスカレーションしてしまっていたようでした。
知らない男性の登場
そんな家庭に生まれてしばらく…小学2年生のことでした。夏休み中突然母に「出かけるよ」と言われ向かったカフェに、知らないお兄さんがいました。当時私は人見知りをするタイプの人間であったため、その時はほとんど会話をしなかったのを覚えていますが、母からはそのお兄さんのことを「家庭教師だよ」と紹介してもらいました。
そのお兄さんは、その後ちょくちょく家に上がり込んでくるようになりました。「家庭教師」といってもまともに勉強なんて教えてもらっておらず、基本的に私と妹は放置されていました。ただ、やたらおもちゃやお菓子を買ってくれたりして、ディズニーランドかなんかに連れて行ってもらったりして最初のうちはご機嫌を取られていたことは覚えています。
母から突然の質問
一方で、母と実の父の喧嘩はやむことがありません。じゃぶじゃぶお金を使う母と、それにNO!を言う父。ある日、いつものように喧嘩をした母が、深夜になぜか私と二人で話をしたがります。私は母に抱きしめられながら、こんなことを言われました。
母「お母さん、パパともう離婚しようと思うの。もうパパはパパじゃなくなるの。その代わり、●●(当時の家庭教師のあだ名)がパパになってくれるかもしれないよ。」
小二の私としては、そもそも「離婚」という言葉を知らなかったのでどんなことを母が言っているのか、ほとんど理解できていなかったと思います。ですが、母の表情がすごく怒っていたことと、母が今すごく悲しいことを言っていることは伝わりました。だからかわからないけど、私はその言葉を聞いて泣いてしまいました。母からは「泣くな」と言われたけれど止まりません。母は、私を抱きしめながら続けます。
母「■■くん(私)のことをパパに取られたくない。お母さんと一緒にずっといて欲しい。だから「お母さんと一緒にいたい」ってきちんと言葉にして伝えて欲しい」
当時私は子供で判断力がなく、母のいう通りのことしかできませんでした。私は言われるがまま「お母さんと一緒にいたい」と母に確かに伝えました。
母の実家に夜逃げ
そこからは、あれよあれよという間に身支度を整えられ、夜、母の実家へ「遊びにいく」という体で移動しました。そして、そのまま私がそのマンションに帰宅する日は来ませんでした。母方の祖母のもとで「ながーい夏休み」を過ごしつつ、どうやらこの期間は父と離婚調停をしていたようでした。私たちが余計なことを言わないように(ポロっと謎の家庭教師の存在とかをほのめかさないように)、物理的に距離をとったものだと思います。
母はその期間、夜中まで遊び歩いていたようです。いつもお酒の匂いがして、派手に着飾った母と私は生活時間が違うため、ほとんど会話をしませんでしたが、私が小学校2年だったか3年だったかの頃、突然、無事に離婚をしたとの報告が母からありました。
家庭教師が母の実家で暮らすように
この期間、家庭教師もぱったりと来なくなります。が、離婚終了後すぐに家庭教師が、父として祖母の実家に無断で「帰って」くるようになります。引っ越しをしたうえで、部屋を一つ占領して、同じ屋根の下暮らすようになりました。
これに激怒したのが祖母でした。祖母としては、知らない男が突然家に住み着いて、食事など食い荒らすようになった挙句、働かずにずっと家にいる(実は彼、飲食の厨房の社員だったようですが、やめてしまいニートでした。実父からとった養育費で遊んで暮らしていました)状況に我慢ならず、家庭教師に「あんた誰!?」と、問い詰めます。すぐに母が家庭教師側の助っ人として乱入して、大喧嘩になります。
私としても、家庭教師を新しい父と認めることができませんでした。というのも、ここまでまともに自分のことを気にかけてくれたことなんて一度もなく、家にいても全く自分と会話をしてくれなかったからです。本当にここまでくると、母の部屋でずっと引きこもっているだけの男でした。
それに話しても基本無視されてしまうし、なぜかわからないけど私のことをすごく悪く言う人でした。具体的には「■■(私)の世話をするつもりは全くない。二人とも置いて、お母さんと新しい子供を作って生活をしていきたい」といった趣旨のことを言われていました。
本格的に養父と母から育児を放棄される
とはいえ、この状況で家庭教師と共存は無理であるという結論になりました。
結果としては
・父、母、妹の3人で引っ越して暮らす
・祖母の家には私を預ける形で決着
という方向で祖母と決着し、母は私を置いて家庭教師と生活をすることを選びました。母は私が家庭教師に対していい感情を持っていないことを知り、ある日ドライヤーで私の髪の毛を乾かしながら、恐ろしい表情で「あんたのせいで何もかもが台無し。死ねばいいのに。消えて欲しい。あんたのことを息子だなんて思いたくない。恥ずかしい」と、呪詛みたいな暴言を吐き続けていました。本当に嫌いだったんでしょうね。
私は祖母と二人暮らしをします。伝え聞く話では妹も家庭教師にその後性的虐待をされそうになったとのことで、私の人間不信はもうてっぺんまで来ていて、人(特に大人のでかい男性)と関わることが苦手になりました。中学校ではいじめにもあったため不登校になります。
そこで私は髙橋と知り合いますが、私にとっても彼の存在は大きかったと思います。ほとんどの時間を一緒に過ごしたし、本当に私が自暴自棄であったときも傍にいてくれました。
祖母のおかげで社会人に…つきまとう嫌な気持ち
祖母のサポートも大きかったです。金銭的な援助はもちろん、私の存在を肯定してくれる祖母は、私の心の拠り所であり、まさしく親でした。
社会人となって、がむしゃらに働いて、こうして無事に自立をすることができました。しかし、私の苗字はずっと家庭教師と同じ苗字。交流もない、忘れたい存在なのに、いつまでもこびりついて離れてくれない「親子の縁」を、私はどうしても切りたかったです。
弁護士の無料相談をあたりまくる
家庭を持ちたいタイミングが訪れた30歳の私。何とか、せめて苗字を変えるなどの方法で縁を切ることはできないだろうか、と考え、区の無料相談サービスや弁護士の無料相談を利用して、情報収集をしていきました。弁護士さんからは「氏の変更を申し立てるのはどうか」などの情報を教えてくださいましたが、氏の変更は棄却される可能性が非常に高く「虐待があったから」程度では承認されないとも言われます。日本ってそういう生まれとか育ちとかっていう観点において、すごく厳しい文化が育っているようです。
養子離縁という選択肢
途方に暮れていたある日、無料で相談をした弁護士さんが「養子離縁という形をとることで、親子の縁が解消できるし、苗字がもとのものに戻るよ」と、それまで知らなかった情報を提示してくれました。これは私にとっても目から鱗でした。以降、私はこの「養子離縁」を進めるべく、準備を整えることになります。
養子離縁のシステム
ここまでが私の簡単な略歴と、養子離縁に行き着く経緯となります。端折りまくりましたが、今回必要なところってこんなところかと思います。
ここからは、養子離縁というものが何なのか、具体的な説明や種類を解説していきます。
そもそも養子離縁とは
養子離縁は、公的な親子関係の解消をする手続きになります。親子関係は法律によって強い結びつきがあるもので、相続などの重要な内容にも関わってくるものです。
養子離縁をすると、具体的に生活に影響が出る部分で行くと、
- 戸籍に「離縁をした」旨が残る形で基本的には親子関係が抹消される。
- 親子関係が法的に切れるため、相続などに参加する権利を永遠に失う。
- 子は、養子離縁をした親と同じ苗字を名乗らなくてよい(私の場合は養父との離縁であったため、母が再婚する以前の性を名乗ることができました)
といったことが起こります。「えっ、それだけ??」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、私にとっては非常に大きいものでした。縁が切れることもありがたいし、苗字なんてずっと嫌な気持ちを抱えて生きていくのもつらいですしね。
養子離縁の種類
養子離縁をする方法はいくつかあります。その種類についてまとめていきたいと思います。
協議離縁
対象となりそうな方
・親の住所などがわかり、アポが取れる方
・とにかく早く離縁したい方
私の取った方法がこの「調停離縁」になります。これは、子と親で話し合ったうえで書類を提出することにより受理される、もっとも穏便な解決方法です。基本的には、縁をどちらかが一方的に切ることは困難であり、両者の合意が不可欠なものとなります。私の場合は、協議離縁という形で養子離縁届を準備し、離縁を成立させました。
とにかく後述する二つの方法に比べてレスポンスが早く、結果も明確なのでスムーズです。こちら、私はこの方法をとって満足しています。
調停離縁
対象となりそうな方
・やむを得ない事情で親と連絡が取れない方
協議離縁で決着がつかない場合は、調停離縁という形で家庭裁判所に申し立てをして、家庭裁判所に判断を委ねる形で離縁を進めることができます。この場合、家庭裁判所の判断で離縁の可否に変数が出ます。まずは協議離縁という形をとるのがよいでしょう。
裁判離縁
対象となりそうな方
・調停離縁を認めてもらえなかった方
調停離縁も不成立となった場合に、裁判による離縁を進めることができます。
大変だったこと
私の場合は、書類作成が精神的に一番しんどかったです。が、養父の署名さえ取れれば、驚くほどあっけなく受理され、3週間程度で正式に新しい戸籍が作られました。
「えっ、こんなに簡単でいいの!?」という驚きと、少し遅れてから、やっと呪縛から解放された喜びが押し寄せてきたのを覚えています。その後のすべての書類や免許証の苗字変更は結構大変でしたが、内心うれしい気持ちで進めていけました。
概ね、諸々の手続きを含めて1か月半程度で決着し、今は完全に養父と離縁した生活を送っています。
実際に養子離縁をした感想
思ったより全体的に暗い内容の記事になってしまっていないかと心配ですが、私としては非常に軽やかな気持ちでいます!
離縁という選択は法律的にも重たいものであるかと思います。母や妹とも事実上離縁したことにもなるし、祖母も実父も亡くなっているので、私には家族という存在が事実上いなくなりました。ですが、私の中には祖母や実父との思い出があります(ここには書きませんでしたが、父とは亡くなる前に関係修復できています)。そして、今落ち着いて記事を書いている自分を俯瞰してみて、私は改めて、離縁をしてよかったと思っています。
「親不孝者」「薄情者」などと言われるのかもなと思いますが、こういう手続きが必要な人間もいるということ。そして、こういう選択肢だってあることが、今苦しい誰かに届けばうれしく思います!
てがある。について
てがある。は、障害のある方や「グレーゾーン」と呼ばれる方、生きづらさを抱えていらっしゃる方々に、もっといろんな「てがある。」ということを、軽いフットワークでどんどん普及していくことを目的に立ち上げた専門チームです!
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てがある。編集部
- 作業療法士兼イベンター。大学では企画構想学科を修了後、イベント運営会社に就職し放送業界にて活躍。その後、作業療法士の資格を取得し、リワークにて施設長を経験。好きなものはコーラ。犬か猫かといわれれば、やはり猫!